怪盗が盗みに入るように、僕はハガキを出しに行った
午前二時を回っていた。
何日越しになるか、ようよう宛名書きまで書き終えて、さていつ出しに行こうと考えた。
普通に考えれば、夜が明けてから、となるだろう。
ただ目が覚めた明日、外出できる具合とも限らない。
明日中に出せなければ、速達で出すにしても少々厳しかろう。
今は動けそうでも、果たして起きた時にどうなるか。賭けだな、としみじみ考えていた。
なぜか不意に、大昔の『無人島生活』のOAを思い出した。それかひょっとすると、『節約生活』の頃かもしれない。
わからないが、とにかく、僕の脳内にいるマサルさんが言った。
「ほんなら、抜け出すしかないな。」
嘘やろ。
僕は、脳内の有野さんと一緒に嘆いた。
夜九時を過ぎて家を出たことは二度しかない。
祖母の危篤の時と、母が倒れた時だ。
好き好んでの、夜の外出は初めてだった。
うちには色々とセンサーがある。比喩ではなく、どこかが開くと、警報が鳴る。
気配を殺して、センサーを切りにいく。切ったら切ったで、切れたという通知音が鳴る。
仕方がないので、なるべく音が響き渡らないように工夫をする。
パジャマの上にコートを着て、鍵と財布とスマートホンをポケットに入れて、ハガキは折れないよう手に持って、玄関を出た。
困ったことに、切れないセンサーもあった。
切ると、通知音が家族の寝室で鳴る。
とはいえ、伊達に生まれた時からこの家で暮らしていない。
センサーに引っかからない場所を考えて、ハガキを片手に持ったまま乗り越える。
母が見たらなんと言うか。
母はバラエティ番組を嫌っていた。
父は『電波少年』が好きで、『黄金伝説』『炎のチャレンジャー』は父が観るから観られていた。『めちゃイケ』は許されなかった。『はねトび』はその日のコーナーによりけりだった。
その昔、マサルさんは無人島の岩肌を、抜き身の銛を片手によじ登っていた。
今ならクレームでも入るんじゃないか。
極寒の海に入ったり、サメの巣穴にケンカを売ったり、なみなみの油に魚を丸ごと放り込んだり、思えばむちゃくちゃばかりだった。
たとえば早晩、金ダライはただのタライになって、お笑いの道具ではなくなる気がする。
ローションはやらしいことに使うもので、クリームパイはおいしく食べるものになる。
金ダライは人の頭に落っこちると、とてもいい音を立てる。
『オーダーメイド2019』の映像で、たぶん久しぶりに金ダライを見た。
そんな令和の夜更けに、僕はハガキを出しに、初めて誰にも言わず家を出た。
外は寒かった。昼間より空気が少し、郊外に近づいた気がした。
目に見えない細かな氷の粒が頰に当たっている。寒い、より、冷たい、かもしれない。
黄色く光るコインパーキングの看板の下で、居並ぶボンネットとフロントガラスが白く凍てついていた。
指でなぞれば何か描けそうなキャンバスで、しかし僕は昔から、「そういうこと」ができない。
この場に居たら何かしらを描きそうな芸人の顔が、何人か浮かんだ。
大通り。車がバンバン走っている。通行人はいない。
通っていく車は、ちょっと飛ばし気味。
歩行者信号がちゃんと点いているのが、なんとなく不思議だ。
終電はとうになくなったはずなのに、駅に明かりが見えた。
ヘルメットに作業服姿の人たち。工事かなにかをやっている。
改札機に、でっかいビニールがかぶせてある。
「夜中に仕事をしている人」だ、と我ながら、おかしな高まりを覚える。
妙に、感動した。
ポストは駅からほど近い。
ポストの前に立って、差込口を確かめた。
ハガキと手紙は左、それはさすがに知っている。でも、確かめた。切手も確かめる。何度か値上げがあったものだから、家には62円切手ばかりが残っていた。
なにかの不備で自宅に戻ってきてしまったら、見咎められてなにを言われるかわからない。
年賀状ならともかく、この時期に僕宛にハガキが来るなんてことはない。
学校に通っていた頃も、うちは住所録に住所を載せていなかった。
ポストに手を突っ込んだまま、しばらくハガキを離せずにいた。
差入口の舌が手の甲に冷たかった。
帰りしな、コンビニに寄った。
初めて一人でコンビニに入ったのは高校生の頃だったか。
夜中のコンビニは当然初めてだった。夜中に一番くじでA賞を当てた、マサルさんを思い出した。
僕ががんばっても眠れないその時に、コンビニでくじを引いて喜び合っている人たちがいたのが、どうしようもなく不思議だった。
この世には、地を這うような辛苦と、ささやかな救いが遍在している。
コンビニの店員さんたちは、あまり昼間と変わらなく見えた。
ただ、商品を入れ替えるかなにかで、三人協力して力仕事をやっている。
僕はその近くのお菓子棚で、新発売のチョコレートを探してうろうろしていた。
ごく当たり前のこととして、誰も僕を咎めなかった。
家を抜け出してきたことも、誰にも知らせず外出したことも、一人で行動していることも。
こんな夜中に、まだ眠れていないことも。
なにか買いものができたら面白いだろうと思ったのに、チョコレートは売り切れだった。
その昔、僕が『黄金伝説』を観ていた頃、よゐこの二人は徹夜ばかりしていた。
実際数えたらそこまでじゃないのかもしれないけど、僕の印象では、節約やら無人島やらが絡むとほとんど毎回していた気がする。
当時の僕は夜更かしを許された日でも十時には寝ていて、こっそり起きていても日付が変わる前には寝ていたから、「徹夜」は想像のできない領域だった。
昔地球は恐竜に支配されていたとか、宇宙のどこかには知的生命体がいるかもしれないとか、そのレベルの掴みどころのなさ。
僕の中で、「徹夜」は行為というより、道に似ていた。
夜中という場所がある。そこは夜の先で、朝の手前。
よゐこの二人はその、僕の入ったことのない道に分け入って、朝にたどり着く人たちだった。
『黄金伝説』のカメラを通して、のたのた料理をする二人の背に、夜をたどる道程を見ていた。
そして、その印象は今に至るまで、おおよそずっと変わらない。
海に潜る。焚き火をする。洞窟探検をする。
知らない道ばかり通る、兄さん二人組。
番組などで聞く二人の思い出話は、まったくもって現実味がない。
互いの家に遊びにいく。二人でゲームをする。物騒な経験をしながらバイトをする。漫画を全巻大人買いする。それを読みながら寝落ちする。
都市伝説の権化みたいだと思った。
原作の方の『ガリバー旅行記』を読んだ時と似た気持ち、かもしれない。リアルでありつつ荒唐無稽、夢があるくせどこか卑近な冒険譚。
僕にとって、よゐこはそんな、「物語」に近かった。
コンビニをなにも買わずに出て、帰路に着いた。
大通りを外れると、人も車も通らない。いわゆる閑静な住宅街。
間をあけて並ぶ街灯は路面を照らして、その明かりの間隙で、アスファルトの黒が際立つ。
ふと気になって、車道の真ん中に立ってみた。
昼間でも車通りなど滅多にない道だ。
周りに気をつけながら、車道の真ん中を少しだけ歩いた。
まっすぐな道で、見通しのいい直線上には誰もいない。
道路を一本違えただけで、空っぽの町だ。
時刻は二時半くらいだろうか。
たしか番組によっては、当たり前に収録中の時間だった気がする。
ざまあみろ、と少し、せいせいした。
センサーに引っかからないように境界を越えて、玄関の鍵をじりじり回して、帰宅した。
靴は元通りしまって、切っておいたセンサーも慎重に入れ直す。
コートを一枚脱げば、元のパジャマ。
うん、僕にしては、都市伝説みたいな夜じゃないか。
僕の書いたハガキは、なにかをやり損なっていない限り、あの兄さん二人の元へ届くのか。
全部を全部読んでくれているのかは知らないが、届きはすると思っていいのだろう。都市伝説の塊みたいな、あの二人に。
まったく、十数年越しの、荒唐無稽な現実である。