蓄音機 ─言葉とか催眠とか─

催眠が好きです。言葉や催眠や文具、その他面白そうな事について、ああとかこうとか書いて行こうと思います。

さびしい一人称

 最近、よく話すイギリス人がいる。

 あまりに僕の中の「イギリス人」という概念にはまり過ぎているので、陰では概念英国人氏、なんて呼んでいる。ステレオタイプというもの自体は好きではない僕だが、これはちょっと、ロマンに近い。

『狭い質問していい?』
彼は日本語がわからない。
 全くではないようだけど、文章が作れるほどの日本語力はないらしかった。
『君の質問はいつも狭い』
そんなふうに茶化す言葉で、暗に「どうぞ」と彼は言った。
『日本語の「さびしい」を和英辞典で引くとさ、sadとかlonelyとかlonesomeが出るんだけど、違うと思うんだよね。少なくともlonelyではない』
『「さびしい」?』
彼は会議室のブラインドを端から閉めながら、探るように繰り返した。
『lonelyは、人がいない感じだね』
『「さびしい」にも、その意味はあるよ』
『solitudeなら、ちょっと違う意味もある。いい孤独っていうか』
『いい孤独?』
『そう、ポジティブな孤独。森の奥で、人の気配もなくて、静かに一人。そんなポジティブな孤独』
ポジティブな孤独とは、概念はわかるが、それを表す言葉があるのは面白い。
『「さびしい」は、基本ポジティブじゃないなぁ。多分』
『いい文脈じゃ使わないの?ふぅん』
後片付けをする片手間のように、彼は相槌を打つ。彼が相手をしてくれるときは大体が何かの片手間なのに、不思議とおざなりにされている気はしないのだ。
『「さびしい」は、何ていうかな、例えば田舎に帰ったら自然が減っちゃってた...とかは「さびしい」かな。でもlonelyじゃないでしょ』
『じゃ、sadなんじゃないの』
『sadなのかなぁ』
どうにも腑に落ちなくて、思わず唸る。「さびしい」とはなんなのか。外国語の話をするときは結局いつも、日本語の話になってしまう。
『sadって、英和辞典だと「悲しい」って出てくるんだよね』
さっさと荷物をまとめてしまった彼を追いかけて、僕は会議室を出た。廊下を歩きながら、日本語と英語── 二つの言葉を追うのに必死になる。
『だけど、「悲しい」と「さびしい」は違うよ』
『どんな言語にも言えることだけど、一対一に対応する単語なんて見つからない方が普通だ』
『それは、よくよくわかってるけど』
「さびしい」は、sadでlonelyなのだという。逆にsadは「悲しい」だというけれど、本当はその中に、「さびしい」も入っているのだろうか。
『「さびしい」は「悲しい」と違ってさ、例えば私なんかはいつも──』
わかりづらい上に余計な例えを口走りかけて、思わず黙った。
 彼は、全く気遣いなんてないようにすたすた前を歩いていたくせに、尋ねるようにちらと視線をくれた。
 あーあと思いながら、続きを白状する。
『私には、君の一人称がわからない。どうしたってね。それがいつも、「さびしい」よ』

英語力と羞恥心のせいで、言葉足らずの訴え。
『へぇ』

興味があるのかないんだか、色気のない返事。しかし、感じるところが通じた手ごたえはあった。
『「さびしい」には確か、漢字が二種類あったね。あっちの、「林」みたいなやつの方、あっちの方が詩的だね』
『ああ......もう一方のほう、あっちの雰囲気は── 「寂寞」、なんて知らないよね』
『ジャクマク...』
『なんだろうな。「古池や...」の感じ』
『あー』
これで通じるあたり、日本語はできずとも文学通な彼である。

 二人して、エレベーターに乗る。話しながらなんとなく、別れるタイミングを逸していた。
「このままだとデスクまで着いて行っちゃうけど、いいのかねぇ」
わからないのをいいことに、日本語でつぶやきながらエレベーターを閉める。用もないので、僕の方はもう帰らなくてはなぁと考えていた。

 彼が降りる階で見送ってそのまま別れようと思いながら、そろそろ別れの挨拶を切り出さなくてはと口を開いた。
『いつも細かい質問ばかりして悪いね。他に聞く相手も居なくて』
『ああ、いいよいいよ。──、』
一瞬、なにか、妙な間。
 彼が何かを口走りかけた気配を感じて、思わず鳶色の目を捕まえた。
 ここで逃してしまったら、言わずじまいなんだろうという直感があった。

「I can be sad」
観念したように、ちょっと笑って彼は言った。

 聞き返せもしなかった。
 エレベーターが開いて彼が廊下へ歩み出すまでにぴったりな英文を作るだけの力が、僕にはなかったから。
『じゃ、気をつけて』
扉が閉まる寸前にそつのない笑顔をにこっと浮かべて、彼は僕に背を向けた。ありがとう、ともじゃあね、とも返さずに、扉が閉まる。

 エレベーターがエントランスに向かって下がっていく。一人きりの箱の中、えもいわれぬ気分で考えた。 

 

 ああ、さびしい。彼はsadを選んでつぶやいた。あのつぶやきを辞書で引いたら、いったいなんと載っているだろう。

 僕は一人なのをいいことに、やるせなく笑った。