蓄音機 ─言葉とか催眠とか─

催眠が好きです。言葉や催眠や文具、その他面白そうな事について、ああとかこうとか書いて行こうと思います。

異邦人 ─手話が公用語の国─

  外国人によく頼みごとをされる。
  写真を撮ってほしい、道を教えてほしい、電車の乗り方を教えてほしい......頼みやすそうに見えるのか、外国語が堪能に見えるのか。ともかく、よく助けを求められる。
  日本語で話しかけてくる外国語はほとんどいない。覚えている限り一回だけだ。外国人の多い大学にいた頃の話である。
「スミマセン、ショクジヲスルトコロ、ハ、ドコニアルデスカ」
「《食堂のことですか?あそこです。あの建物》」
僕も英語は流暢ではないが、恐らく英語圏の人だろうと思えばとりあえず英語で話す。すると彼らは良かった、という表情をする。英語が全く通じなかったらどうしよう、自分の意思を伝えるすべがなかったらどうしよう、そう思いながら彼らは話しかけてくる。

  僕はほんの少しだけ手話ができる。僕のような聴者が使う音声言語とは違う、沈黙の言語。手話は世界共通語ではなく、国ごとに別だという。表意文字ならぬ表意表現もあれば、当て字ならぬ当て表現もある。身振りならではの直感的で感情に寄り添った表現もある。
 
  手話は思うに、 ‘外国語’ だ。「森」と「緑」を同じ単語で表す。「海」と「浜」の区別はない。日本語を身振りというサインに置き換えた ‘なにか’ ではなく、外国語なのだ。

  手話は思うに、透明な言語だ。音声言語話者と違うレイヤーの上にあり、多くの聴者が行き遭うことはない。僕は点字はわからないけれど、点字よりももっと透明に近いような気がする。券売機やエレベーターのボタンに偏在する点字と違って、人によったら手話は見たことすらないかもしれない。


  先日僕は、手話話者たちが働く店に行った。僕に手話を教えてくれた人がパンフレットをくれた店だ(「Sign with Me」http://www.signwithme.in/?mobile=1)。この真夏に、芯から温まると銘打ったスープ屋さん。パンフレットのメニューを見て、パスタにしよう......と事前に決めた。

  狭い狭い階段を上がる。店内からは賑やかな声が聞こえた。聴者もたくさん来ているのか、と少し驚いた。
  店内への扉を押し開ける。扉にはベルも何もついていない。ああそうか、と思う。店員さんは誰もこちらに気付かない。とりあえずレジの方ににじり寄る。レジの店員さんがふっとこちらを見て、
『一名ですか?』
と身振りで尋ねた。人差し指を立てる仕草だが、手の甲がこちらを向いている。ただの身振りではなく、手話の『一人だけ』だ。僕が頷くと、レジのそばのカウンター席を示された。ひとまず荷物を置く。席にはいくつか注意書が置いてあった。「注文はレジで」の文字を見て、財布を持ってレジに立つ。レジには写真つきのメニューが用意されていた。写真には番号が振ってある。

  これを。
  僕は8番のパスタを指差した。
  頷いた店員さんは、メニューの横に立ててある注意書を示した。『単品  セット』の大きなゴシック体の文字。僕が手話話者でないとわかっているようだった。マクドナルドの店員さんが外国人を見るとメニューを英語面に裏返すように、僕は ‘聴者向けマニュアル’ のルートに入ったのだろうなと頭の片隅で考えた。
  僕は『セット』を指差して、首をかしげて見せた。店員さんは頷いて、メニューのスープとライスを指す。了解して『単品』を示すと、店員さんはファミレスでよくある確認の復唱のように、
『8』
と両手で示して見せた。片手をパーにして、もう片手で指を三本立てる。
  手話の8は片手で表す。店員さんは ‘日本語’ のできない僕に気を遣って、聴者が使う言葉を使った。ああ、僕はここでは異邦人なのだ。外国に行った事もないのに、異邦人の感覚をおぼえた。

  8番のパスタ──たらこパスタは美味しかった。辺りを見渡すと、わいわい歓談する聴者もいる。僕の隣に座った青年は恐らく手話話者だ。ろう者の集会のチラシを黙々と読んでいる。
  帰るときにはトレイはそのままでいいと注意書にあったので、遠慮なく身支度をする。いつものようにご馳走さまと声をかけようとして、ああそうか、とまた思う。彼女たちは仕事に忙しく、目すら捕らえることができない。仕方なしにカバンを背負うと、僕の隣に座っていた青年がレジへ立つのが見えた。店員さんを捕まえ、何やら流暢な手話で会話している。レジ横に積んである、店長さんの出した本を買いたいらしい。青年は小銭を用意しながら、片手だけの簡略な手話で世間話に見える会話をしている。店員さんは営業スマイルでない笑顔でふふふと笑った。何の話をしているのだろう。僕には彼らの流暢な、崩した言葉はまるでわからなかった。

  店を出ようと扉を開けると、すぐそばでテーブルを片付けていた店員さんが気が付いてくれた。布巾をテーブルに置いて、声をかけてくる。
『ありがとうございました』
僕にも、幸いこれくらいは読み取れる。
こちらも頭を下げて、両手で返事をする。
『ありがとうございました』
異邦人の僕には、「ご馳走さま」はわからなかった。